イエス様の十字架を誰も負うことは出来ない

 「誰でもわたしについて来たいと思うなら、

 自分を捨て、

 自分の十字架を負い、

 そしてわたしについて来なさい。」マルコ8章34節

 イエス様が神の子だと信じることができたら、それにふさわしく生きていきたいと思いますよね。

 でもそのために、イエス様についていきたいと思っても、

 まず、自分を捨てなくてはいけない。

 いきなり難しくなるんですよね。

 自分、捨てることが出来ますか?

 絡みついてきませんか?

 毎日、お前は罪人だとサタンは必ず指摘してきます・・・

 そのためにイエス様の十字架の死が必要なんですね。

 そこには"私の"罪を背負って、呪われて、死んでくださったイエス様がおられる。

 そしてそれは、罪人である"私の"死んでいる姿

 これを毎日、頂くのが"自分の十字架を負う"の意味だと私は思っています。

 イエス様の十字架を誰も負うことは出来ません。それに付け加えることもできません。

 イエス様が死んでくださり、その代わり私が生きている。

 イエス様が罪人として死んでくださり、神の子であるイエス様の義を私に与えてくださった。

 私はただただ、イエス様の義を有難くいただくことしかできません。

 そして、その義を頂いた者は聖徒なんです。

 自分をこねくりまわして変えて聖徒になるわけではなく、ましてや罪人が節制して、進歩して聖徒になるわけではない。

 イエス様の義を着せていただいて、何度も間違えながらも、変えられていくのが聖徒なんです。

 自分の生きざまで、誰かにイエス様を信じさせるのは無理です。

 でもイエス様の十字架の御業は違う。力があるからです。

 かえるのるちゃん というブログもとても良いブログだなと思います。ストレートなとこが好きですね。

 イエス様に「私に奇跡と祝福をください、もっとください」と祈ってますが、YouTubeでも

 Dr. あいこ「奇跡・しるしが伴うための重要な鍵- Part 2」 を見て、うーん、もっとみことばを

 黙想して、もっと自分のものにする、もっと掴む、触れられるくらいにならないといけないな・・と思いました。

 では、また




 
 

 



 

この記事へのトラックバック