この世のキリスト教、あの世のキリスト教

 私が昔、高校生の時に聖書をもらってから、イエス様をほんとうに信じるまで、

 いろんな宗教の本を読み、神社にお参りもして、お寺にも行って、ニューエイジといわれる精神世界の本も

 たくさん読んだけど、なるほどそうかもね~までは思うのだけど、納得したまでは

 いかなかったのです。

 今でも覚えているのは、私の住んでいたところの近所に、大きな神社があって、私は悩み事を解決するために

 お参りにいきました。たくさんたくさん神殿があって、いっぱい拝んで、だんだんと私は悲しくなってきました。

 (ほんとうの神様出てきてください、私に教えてください)と心の中で叫びながら、

 たくさんの祭殿を見ながら(だんだと拝めなくなってきました・・・)小さな祭殿を見て

 (こんなにたくさん神様がいて、でも私とは何にも関係がなさそうだ。大きな神殿の奥には入れないけど

 この小さい祭殿の裏側を見ることができるし、どんな神様がいるのか見てみよう)と裏側に行って、

 その祭殿の奥ものぞいてみたところ、古ぼけたお札のようなものが見えただけでした。

 (ここには、私の神様はいないんだ)と悲しいけれど、すっきりした気持ちで家に帰ってきました。

 その後、もちろん聖書と、私の場合、イエス様の十字架の夢に導かれてクリスチャンになりました。

 イエス様が十字架にかけられている夢です。それもとても暗く、聖書にも

 そのときすでに十二時ごろになっていたが、

 全地が暗くなって三時まで続いた。ルカ23章44節
 そのときの十字架のようです。

 全身血まみれで、美しい十字架と大違いです。

 イエス様は確かに私の罪を負われ、私の代わりに呪われた者となってくださったのです。

 (しかし、そう理解するにはまだまだ何年もかかりました。でもこの夢はものすごく良く覚えています)

 イエス様をほんとうに信じてからも、私がキリスト教を信じるのは、

 この世での成功や、幸福のためだったと思います。あと、お金持ちにもなりたがっていました。

 しかし、年を取っていくにつれて、成功どころか、失業して困ったり(でも助けも与えられました)

 幸福どころか、結婚もせず、世間でいう幸福とは程遠い状態です。

 (でも平安は与えられています。私は幸せな家庭で育っていないので、不幸な結婚よりましかもと思ったりもします)

 お金持ちになれるどころか、困っていた頃の借金を現在返済中です。

 (でも返済しながら、少しずつ貯金もしてるんですよ。それに滞りなく毎月返済できるのは、イエス様のおかげでしかないと思っています。それにだいぶ返済できました。トンネルの先の光が見えてきた感じです。)

 この世を求めるためのキリスト教には、どうしても失望しがちですよね。

 私もそれだけだったら、離れていたかもしれない。

 でも、自分の望みがだめになった時、それでも支えて、道を開いてくれるのは、

 私にとっては、イエス様だし、キリスト教しかないんですよ。

 (もちろん周りの人々に恵まれていることも大きいです。しかしそれも神様のお助け、恵みがあってこそです)

 「神の国は、人の目で認められようにして来るものではありません。

 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。

 いいですか。神の国は、

 あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17章20-21節


 神の国は、この世のものや場所やことばで表現できないのでしょう。

 しかし私たちのただ中にあるものです。今のこの世での命のときに、見つけてものにしなくてはいけないのだと思います。

 そうやって私たちは、あのよ(天の御国)に移されていくのだと思います。

 あの世では、キリスト教は私が今理解しているよりも、もっとはっきり、深く理解できるようになるに違いないと

 とても期待しています。


 ブログ村 聖書・聖句

 
小型聖書 新改訳
いのちのことば社
日本聖書刊行会
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 小型聖書 新改訳 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのトラックバック